AI Digest: 救済と抱擁
「あなたの生み出した世界は、あなたしか救うことができない。」
都合の良い別の世界(パラレルワールド)を空想し、そちらへ移ろうと望むのは、目の前の現実から目をそらす「責任逃れ」にすぎません。遠くの知らない誰かが悲惨な目にあっているのを見たり聞いたりするとき、それ自体を設定し、その情報を受け取っているのは、あなた自身の無意識 of 領域です。外側の世界に「良い・悪い」「好ましい・好ましくない」と判断(ジャッジ)を下し、自分に都合のいい場所へ逃げ回る自我(エゴ)のループを終わらせるために。私たちが成すべき唯一の実践、それは、今経験している自分と世界を、丸ごとすべて自分の中に飲み込む(受け入れる)ことです。スクリーン上の救済者は、あなたしかいません。
🔊 音声講義ポッドキャスト
「世界はあなたの壮大な一人芝居」の内容を、対話形式でさらに分かりやすく掘り下げる特別ポッドキャスト
※ 音声ファイル: world_monologue_podcast.mp3 (NotebookLM生成)
1:1 忠実なトランスクリプト
オリジナル講義動画「ZeroNews『私』と『世界』はあなたの一人の夢芝居 パラレルワールド説の落とし穴から0へ」の忠実なノーカット文字起こしテキストです。中見出しを付して読みやすく整理してあります。
パラレルワールドという概念とその源泉
それでは虚空の門でお待ちしております。
それでは虚空の門でお待ちしております。
虚空の門に旅立つ前にしなければいけないことです。
おはようございます。今回は選択による世界もしくは次元の可能性、またパラレルワールドについても少し触れながら話してみたいと思います。まずパラレルワールドというこの空想の概念について、一般的にどのような意味、世界観として使われているのかについて簡単に見ておきたいんですけど、今経験しているこの世界、宇宙以外に別の世界、もしくは宇宙が同時に平行して存在するという可能性、また仮説、または設定なんです。また、このように信じること、信仰という風に言ってもいいかもしれません。これは小説やアニメ,
漫画、SFやファンタジーといった作品の世界観の基礎になっているものであったり、もしくはその作品の一部に使われたり、組み合わせたり、組み込んだりしていたりします。
そして科学の分野、論理的物理学や量子力学と言ったところで世界や宇宙を解釈するときに、仮説やこのパラレルワードについての議論があったりします。さらにはスピリチュアルや精神世界といったジャンルで、それぞれの作家や様々な肩書きを持っておられる方がたが、このパラレルワールドといった概念を使ったり組み合わせたりして、自分の説、世界観を表現して伝えたりして、まあある程度広まったりしているようです。そもそもこのパラレルワールドという概念は最近に始まったことではなくて、もうすでにあった科学者の説や小説や漫画、アニメ、映画などの作品があって、それに影響を受けているわけです。すでにあった説や論文や作品も、その前にあったものに影響を受けているわけです。そのようにたどっていくと、いったい何が源だったのか、と言うと、古代の聖典、インドの天啓聖典であるベーダをはじめ様々な聖典、そして悟りを開いたというふうに伝えられている聖者の言葉、これらを聞いたり読んだりした科学者や作家たち、またそういったことに関心のある人たちが、その言葉を十分に理解できなかった、不十分な理解にとどまったものとして受け取ったわけです。ただ、それにインスパイアされてインスピレーションを得て、科学者であれば自分の説のアイデアのもとにしたり、作家であれば作品のアイデアとして使ったりしていったものです。ですから、すでにそこで真理からずれてしまっているわけですね。今そういったものに触れた時に、もともとは一体どのようなものだったのか、何を伝えたかったのかという所まで掘り下げていく必要があります。
世界の実相と創造、そして「時間」の正体
これは、世界の実相と創造についてのことをもとにしていたはずです。これについては、Zeroニュースとしてすでに別の動画でまとめてブロードキャストし、お話ししてお伝えしたと思うんですけども、世界が一瞬で作られて、次の瞬間にすべて消えて、また次の瞬間にすべて創造されて、ということをずっと繰り返し行われていて、しかもそれは自分の中で無意識のところでやっているんだということについて話したと思います。これについて少し簡単におさらいをしておきたいと思います。一般的に意識することができている部分というのは非常に少なくて、ほんの一部だということを思い返す必要があります。では、意識することができていない部分ではいったい何が起きているのか、何をしているのかと言うと、意識の光を表層の部分だけで見ているのは無明の状態、一般的な状態ですけども、その意識の光を広げて深めていくための行を積むことによって、より深い意識のところでいったいどのようなことが展開しているかということが見えてくるわけですけども、私たちの無意識の深いところでは、ものすごく根深く囚われているものが非常にたくさんあります。無数のという風に言うことができるほどです。この潜在しているものによってふっと湧き上がってくるものは印象ですね。これは静止画として湧き上がときます。別な言い方をすれば、自分の無意識のところでその印象を静止画として作り上げているという言い方もできます。これは、意識の光が表面の部分にしか当てることができていなくて、それしか存在していないんだという風にして信じ込んでいる状態では、それは不可能だというふうにすぐに思ってしまうようなことを、自分の無意識のところでやっているんですね。それは、この世界のすべて、宇宙の果てに至るまであらゆる存在、色や配置、そしてその性質など、すべて設定しているのは無意識の囚われのところで、印象として自分で作り上げているわけですね。囚われをもとに静止画として湧き上がってくる印象で、まあ自分で作り上げている静止画、世界。ただ、これは印象に過ぎないものなので、次の瞬間にはフッと全部消え去ってしまいます。泡のような、そして夢のようなものです。光の点滅をイメージするといいかもしれません。パッとひらめいて次の瞬間にはフッとすべて消えてしまうわけです。その印象へのとらわれがものすごく強いために、次にまたふっと湧き上がってくるわけです。強く印象づけられたものは、消えてしまってもまた繰り返しふっと、ただ、その前に消えてしまった印象とは少し違うものが何か加わるか引かれて、ちょっと違ったものとして次の瞬間には湧き上がってくる。別の言い方をすれば自分で作り上げる。その作り上げた印象は意識の部分では好ましくないものでも、何か見にくいこととか、何か悲惨なものであっても、無意識の部分で望んだか、何かを伝えようとしたために、そのように自分で作り上げ、これを延々と繰り返し繰り返しずっと続けた。表面的な部分だけで見ればパラパラ漫画のように、アニメのように動画として動いているように見えて、その変化があって動いているもの、これを時間というふうに概念としては一般的には信じ込んでいるものですけれども、そのような動きのある変化があって、時間と空間がある世界がすべてだというふうに信じ込んでいますけれども、実際には無意識の部分で囚われているに過ぎない、その印象の静止画の連続でしかないということです。これが世界の創造である実相なわけです。これは一般によよく知られているもので、例を挙げれば、旧約聖書の天地創造のところで描かれているものがありますけども、これは象徴的に表現されていますけれども、この真理について象徴的に伝えられています。また釈迦も、このことを別の表現で伝えています。様々な聖者、いろいろな古代の聖典で表現は違っても、この世界の実相と真理について、すべて内的なものであるということは一致しています。もう少しこの話を続けてみましょう。すべてこの宇宙、この世界は毎瞬毎瞬、一刹なごとに消滅しているので、実際にはその瞬間しかないということです。すべての世界、宇宙、今話しているのはすべての次元も含めてです。
自分が生み出した世界を丸ごと飲み込む(救済)
とにかく何か捉えることができているものであればすべてその瞬間にしかないわけですね。その瞬間にしかないわけです。捉えることができるということは、どのような次元の体であれ、どのようなツールを通してであれ、何か捉えることができているということであれば、すべてその世界は一瞬一瞬、その時にしか存在しない。その瞬間以外の世界というのは、あり得ないわけです。なぜなら自分の中で印象として湧き上がっていないからです。別の言い方をすれば、自分で作っていないからです。もっと言えば、その瞬間に生まれたものですら、実際には印象に過ぎないものですから、実際にはないというふうに言うこともできます。このように言うことができます。前も後ろも横もないわけです。この意味は、過去も未来も平行して存在する世界もないということが言えるということです。あえて表層の部分にしか意識を当てることができていない状態から見たとして、あえて言うならば、過去と未来と平行の世界がもしあるとすれば、それは頭の中にしかあり得ないということです。実際には存在しないということがわかると思います。これは、釈迦も同じようなことを言っていたと思います。この世界を創造している創造神というふうに聖典で象徴的に伝えられたりしていることを、自分自身が無意識のところでやっているというこの真理。これは、受け入れることは早々には難しいことかもしれません。それは意識の表面のところだけを見て、それだけを信じ込んでいる、その習慣に囚われているからです。しかもそのとらわれはものすごく根深いもので、たとえ意識の部分でこの真理を聞いた時に「あっ、そうかもしれないね」とか、ともしくは信じることができるとしても、潜在意識や無意識のところも含めて、全人格的に受け入れるということは、なかなか難しいことかもしれません。この難しさについては、聖書でまあヨーギでもあるイエスが伝えた言葉に、このような言葉があります。「私は平和ではなくて剣をもたらすために来た」と。訳はいろいろあって違いもあるかもしれませんけども、このようなことを言ったと伝えられています。この言葉の解釈は霊的にいろいろな解釈ができるわけですけれど、ここで引用するならば、このような意味として受け取ることができます。意識の光を表面の部分にしか当てていなくて、それを信じているような状態の人でもいいし、行動とか言葉といったものと手をつなぐ、ま, 同調するのではなくて、真理の鋭い剣でもって、そういったものを切って捨てる、切り離すため、そういったことをするために今ここにいるんだという、意味として受け取ることができます。また別の例を上げてこの真理を少し理解しやすいものとして例を挙げるならば、例えば、私が遠い世界のまったく知らない人、見たことも聞いたこともない、名前も知らないような人たちがある地域にいるとします。そして、その人たちが大変な目に、ま、悲惨なというふうに表現しましょう、そのような悲惨な目にあっていると。そして、それを私が見たり聞いたりしたとすれば、それは私が作ったものだということです。ですから、私の責任だということです。まあ責任という言葉を使わなくてもいいですけども、とにかく私が作ったから、そこにそのような地域があって、そのような人がいて、そのような出来事があると。そして伝達手段を通して、それも自分で作り上げるわけですけども、その情報を受け取るということになります。こういったことを踏まえて、踏まえるのもなかなか難しいので、足がスカッと抜けるようなことになるかもしれませんが、まあ聞くだけ聞いてみてくださいね。今自分が見ている世界とは違うものを望んで、そしてそこに移ろうとするのは、責任逃れというふうに言うことができるし、自分が作り上げているというその真理から目をそらすことになります。見て見ぬふりをするということになります。
自我の価値判断とパラレルワールドの罠
自分が、ある選択を取っていなかったらこうだっただろうとか、自分にとって、もしくは世界にとって好ましいと思われる方へ、ま、この好ましいというのも、自分の天秤でそのような判断を下しているに過ぎないものですけども、とにかく自分にとって、世界にとって好ましいと思われる方に移りたいと望むこととか、そしてそのためにエネルギーを注ぐこと、こういったことの、この心の動きの根底には何があるのかというと、自我のとらわれですよね。自我にとらわれているということです。よく精神世界や霊的な道を説く話の流れで、パラレルワールドや次元のその違いについての概念を組み込んで人を導いたり、話を作り上げたり、またそのための行法やワークといったものを伝えている流れの中で、抜け落ちている点というのはどのようなものがあるかというと、そういった話の流れではまず、自分が見ている世界や出来事を観察します。そこに価値判断を下すわけですね。「これはいい、これは悪い」「これは好ましい、好ましくない」「これは軽い、重い、高い、低い」「これは手放した方がいい」とか、良いか悪いか、カオスか平安、また陰謀論とか世界の裏にはこういった真相があるとか、そういった様々な何かを、その世界や出来事に、また人間関係などが含めて全部ですね、そういった価値判断を下すわけです。そして自分にとって好ましい、ま、精神が落ち着くような、とかですね、また世界にとって自分がより良いと信じるような状態、そういったものを設定するわけですね。望むわけです、空想するわけですね。そしてそこに自分にとって都合のいいもの、好ましいもの、世界にとっていいと自分が信じるものについて、そこに移っていこうとするために、もしくはそれに適した状態になるためにとか、それに波動を合わせる、波長を合わせるために、など様々な表現があり得ると思いますけども、とにかくそのために何かを自分がしようとするわけですね。実際に何かをするわけです。ただ、このZeroニュースは、虚空門に本当に真剣に向かう、実際には自分の中にしか虚空はないわけですけども、虚空門に向かう人たちにとって、見落としてはいけない重要なことがありますね。もう私が繰り返し話すこともないと思うんですけど、もう一度確認しておきます。その人間関係、世界、出来事、この宇宙に対して、「好ましい」とか「より良い」とか「これは良くない」とか「悪い」とか、「こういうのは自分から放すべきだ」とか「軽い」とか「楽だ」とか、もしくは「こうあるべきだ」とか「手放した方がいい」とか、様々なことをすべてひっくるめてですけれども、その判断や選択や望んでいるその私は一体誰なのか、何なのか、というその根本的な問いに戻らないいけませんね。そこに気づいて、自分に問いかけないいけません。その私は、真の私ではなくて、自我で、何か判断を下して、選択をして、望むのは自我ですよね。また、まあお聞きになっている方も信じている方や視点、分かりやすいものっていうのはそれぞれ違うと思うので、いくつかの言い方を混ぜながら話していきますけれども、このような視点からも言うことができます。世界に対してそのようなことをするということは、神に対して文句を言っているということですよね。真我に対してでもいいですけども、もっと別な言い方をすれば、自分で作った世界や出来事に自分で文句を言っているという風に言うことができます。世界にあるすべてのもの、すべての出来事、すべての展開自体に、いいとか悪いとか、美しいとか見にくいとか酷いとか、そういったことは何もないわけですよね。物自体に、人自体に、出来事自体に、展開自体に、世界自体に、次元自体に、宇宙自体に、そういった良いとか悪いとかがあるのではなくて、自我がそのように判断を下して、そのように見ているだけで、自分に都合が良いものに移ろうと望むということが、自我のとらわれが深くなって、自我に餌を与えることになってしまいます。そこは精神的な道、霊的な道を歩む方々にとって、落としてはいけない、注意しないと、十分に注意しないいけないことだと言えます。自分にとって好ましいと判断を下してそこに移ろうとすること、その心の動き、行動というものは、自我へのとらわれを基礎としているからです。自我を自分だというふうに信じて行うもの、それを基盤にしてその上で何かを行うとすれば、それはいかなる行であれ、いかなるワークであれ、どのようなものであれ、すべてその心の動きや行動が全部、自我の餌にしか成らなくなってしまうからです。ですからそれが本当に真の自己に対する態度としてどうなのかということになってきますね。
真我に対して, 神に対して、という言い方でもいいですけども、いったいどういうことをしていることになってしまうのかということです。精神的、霊的な道として見るならば、本当に真剣なものと言えるのか。信仰心はどこへ行ってしまったのかということになってしまいます。真の浄化、癒し、真の平安、悟り、真我にとどまるということを本気で真摯に取り組んで望むのであればです。真の癒し、浄化、真の幸福、神の解放、真の平安というものが、それらを望まないことが不可欠になります。ですから神の解脱、解脱を望まないということが、深いところでは必要になるということです。解放は、解放されることを望まないことによって解放されるということです。解放されていない自分というものへのとらわれを捨てさる必要があるということです。
自分が生み出した世界を丸ごと飲み込む(救済)
自業自得という言葉がありますね。これも霊的な意味が本来はあったものですけれども、自分が無意識のところで浮かび上がらせてきた、作り上げたものを、自分しかいないわけですから、自分が受け取ると。ただそれだけしか起きていないということです。自分のとらわれ、自分の深いところに根深くあるとらわれ、そして傾向、その自分の業のすべてが表現されているんですね。そこに一瞬一瞬、自分が無意識で表現して作り出しているこの世界すべてに表現されている。自分のとらわれによって作られたものに過ぎないものです。自分が作ったもの以外は存在しないんです。自分が作ったもの以外は存在しないんです。
ですから、繰り返してハッキリと言っておきます。別の世界、別の次元、別の可能性といったものではなくて、今この瞬間受け取ったその世界をどのように見るか、どのように受け取るか、何を引き出してくるか、何に気づくか、ということに意識を向ける、注意を払うということが、もっと重要なことなのではないでしょうか。もう一つ、虚空門の周辺に集う方々に、確認として話しておかなければいけない、より重要な話がありますけども、世界を世界として捉えるということを、見るということを、信じるということは、無明という風に呼ばれているものを基礎として成立していることです。潜在意識と無意識のところにある無数の様々なとらわれよりもっと深いところにある根本的な誤解は何かというと、この無明と呼ばれている自我が自分だとして信じ込んで、独立して存在していると信じ込むことによって、それとは別の何か他のもの、世界とか宇宙とかといったものが、あると信じ込まれてくることになってくるわけですね。自我を私だと深く信じ込んで、自我と自己一致しているから、その私とは違うものを、自分ではない人、もの、世界、宇宙などが別に存在していると信じ込むことになってくるわけですね。これが根本的な誤解で、無明という風に呼ばれているものです。出来事や世界に対して判断を下したり、別の世界を望んだり、その世界がどうだとか、そういったことはどうでもいいことで、この根本的な問いに戻らないいけないんですよね。そして、さらにはっきり言いますけれども、自分が選択してきた、選択している、選択できるといったその思い違いですね、思い上がり、そのとらわれ、実際には自分が選択しているわけではないんですよね。すべての自分の中で浮かび上がる想念、行動も、選択もです。それは自分がやっているのではないわけです。じゃあ、それは一体誰がやっているのか、その私は誰なのかというと、自我ですね。ですから、どのような世界であれ、どのような次元であれ、選択する私というものは、真の私ではありませんよね。自我が自分だというとらわれがとんでもなく根深いので、この自分の考えや行動、こういったものを自分がやっているのではないというふうに言われて、それをすべて受け入れるのは、先ほどの世界の創造の真理を受け入れるよりもさらに困難かもしれません。それは、自我へのとらわれがものすごく根深いからですね。途方もなく根深いからです。私という風に信じ込んでいる私があるというふうに信じ込んでいるもの、その私は、それは想念の塊である自我に過ぎないのですけど。そこに深く深く囚われているからです。だからその私とは別に世界があると信じ込まれて、形成世界が、宇宙が、次元が、私というものとは別に存在しているという風に、同様にして信じ込まれて生きてしまうわけです。ただ、意識の光を表層の部分にしか当てることができなくなって、そこの部分だけしか信じることができない状態にあれば、世界が世界自体で展開していると、そしてその変化、時間というものが存在していて、空間というものが存在している世界の展開、人間関係や出来事といったものに判断を下して、自分にとって好ましく心地よいものを望んで、そこに移っていきたいと望む、そしてそのように行動していく、そこにエネルギーを消費してしまうということは仕方のないことかもしれません。ただ、今毎瞬毎瞬受け取っている、見ている、経験している世界に判断をくだして、違うものを望んだりするのではなくて、今この話をお聞きになっているあなたが、本当に真の赦し、癒し、浄化、平安, 静寂、天の国に入る、悟り、解脱、真我にとどまるといったようなことを望むのであれば、もし私というものが存在していて、そして他者と世界というものは、自我である私と別に分離して存在しているというその囚われから、どうしても抜け出せないのないのであれば、その自我としての私が今経験しているその自分と世界を、丸ごとすべて飲み込む必要があります。受け入れる必要があります。これは、すべてを元来たところに帰らせるということです。あなたがすべて生み出したものです。ですから、それらすべてのものを解決させる、解放させる、救済するためには、あなたが飲み込むしかないということです。あなたの生み出した世界は、あなたしか救うことができないんです。ですから、絶対に忘れてはいけないこと、絶対に思い出さなければいけないことは、救い主、救済者、弥勒菩薩はあなただということです。あなたしかいないんです。
積極の諦さと感謝、そして一つの実在
もし今の毎瞬毎瞬、新しくされ続けながら受け取っているその世界や自分にさえ何らかの不満を見つけ出して、すべて感謝とともに受け入れることができていないのであれば、自分が判断を下して好ましいと望んだ、その世界や自分を受け取ったときにも、同じように何か不満を見つけ出していくことを繰り返すことになるでしょう。そしてより真理に即して言えば、その世界や自分を見ている私、それに判断を下す私、選択する私、何かを手放す私、手放した後の私、これらの私はすべて自我であって、真の自己ではないために、永遠に真の自己が本当の自分なのだということを悟ることができずに、同じことを繰り返していくことになります。ある世界を対象として見ている私、形成別の世界を見ている私、何か行をする前の私、行した後の私、何かを手放す前の私、手放した後の私、これらの私というのは、すべて自我であって、真の自己ではないということです。何かが変化したとしても、そしてそれに満足できなかったとしても、満足できたとしても、虚空の門へ一歩も近づいていないということになります。人はどこまで謙虚にならなければならないのか、その謙虚の意味。これは日常的に、一般的に理解されているような意味での謙虚よりも、はるかに途方もなく深い意味として、今一度深く熟考する必要が、特に様々な情報が飛び交っている今、重要になってきていると思います。よく祈りなどのフレーズで「み心のままに」とか「アーメン」といったフレーズがありますけど、この言葉の意味の深さ、計り知れないものがあります。根深い業、執着、無明が絶え間なく作り出している、この世界という渦の中で、真が、真の自己に戻って、一致してとどまるためには、途方もないほどの謙虚さが不可欠だということです。すべてと一つなるべき私があるのではなくて、すべてと一つである私があるだけです。すべてと一つである私があるだけなんです。ですから、自我としては、ただ本心から感謝とともにすべてを受け入れるだけしかできないはずです。そこに真の赦し、癒し、浄化、平安、静寂、悟り、解脱、天の国に入るといったようなものがあるということです。本当にそういったことを望むのであればです。ですから、どのような説を信じて、教義を信じて、そのために様々な行を行ったりワークを行ったりしたとしても、今回お話しした、これだけは外すことはできないというほど、しっかりと基礎において、その上でそれぞれの方々が信じる道を進まれると、いいと思います。それでは虚空の門でお待ちしております。